開いてるヤツと、閉じてるヤツ

2016年2月8日

たとえば、ゲームに夢中になっている男の子がいるとします。

 

どんなにお母さんが呼びかけても返事もしません。

 

それほど、ゲームの世界に没入しているのです。

 

さて、この男の子の状態をもって、

 

「瞑想に入っている」と表現することは、できるでしょうか?

 

 

 

……というような問いが与えられたとき、

 

以前の私だったら、

 

「そりゃあそうでしょう!

 

集中し切っているんだから、それはそのまま瞑想です!」

 

と、張り切って答えていたと思うのですが、

 

でも、自分自身、我流ではあっても、

 

数年間、瞑想を毎日実際に実践してみたり、

 

瞑想について思うことをまとめてみたりした結果、

 

ちょっと、その判断には、

 

慎重にならざるを得なくなってきたんですね。

 

 

 

「瞑想=集中すること」というのは、

 

決して間違ってはいないのですが、

 

でも、その「集中」の中身は、

 

決して一種類じゃないんだよなあ、と。

 

 

 

簡単に言えば、

 

「周りが見えなくなるタイプの集中」と、

 

「すべてとともにあるタイプの集中」、

 

この二種類がある。

 

 

 

「閉じてるヤツ」と「開いてるヤツ」

 

ってことですね。

 

(こんなCMありましたよね……。)

 

 

 

で、これ、別にどちらが優れている、

 

ということもなくて、

 

もちろん、どちらも必要ではあるのですが、

 

ただ、この世界において、誰かや、なにかと、

 

積極的に関わって生きていきたいのなら、

 

やっぱり、「閉じている」よりは、「開いている」方が、

 

やりやすいし、わくわくするし、楽しいよ、と。

 

生きている感動を味わえるよ、と。

 

それは、ひとつ、言えることではあるので。

 

 

 

それで、

 

その「開いている」タイプの集中というのは、

 

そのまま、

 

「すべて」としての「わたし」に気づいていること、

 

と言い換えることができるんですね。

 

 

 

ここで、ちょっとだけ注意が必要なのは、

 

“「すべて」としての「わたし」に気づいている”

 

というのと、

 

“「私」が「すべて」に気づいている”

 

というのとは、

 

まったくもって、似て非なるものだということです。

 

 

 

前者には定まった中心がないですよね?

 

対して、後者には中心がある。

 

 

 

それで、ここからが大切なのですが、

 

前者には定まった中心がないからこそ、

 

すべてが中心になりうる、

 

中心として存在しうるんです。

 

 

 

「わたし」ということばの指す対象の範囲が、

 

この皮膚の内側に閉じ込められた

 

個としての「私」を超えて、

 

文字通り「世界のすべて」に広がっていく……。

 

定まった中心がないと、

 

そういうことが可能になってくるんです。

 

 

 

そこで起きているすべてに、

 

“すべてとして”気づいている状態。

 

“気づきの意識”そのものとして存在している状態。

 

「すべて」としての「気づきの意識」としての

 

ほんとうの「わたし」として、

 

ただただ、ある、という状態。

 

 

 

それが、「開いている」タイプの集中、

 

つまり、この世界を感動しながら生きていく、

 

その手立て(……でもないのですが、ほんとうはね)としての

 

瞑想状態のときに、それそのものとして、

 

起きてくることなんじゃないかなあ、と。

 

 

 

……すみません。最後、ちょっと、

 

あまりにも抽象的すぎましたね。

 

もうちょっとわかりやすい表現を見つけたら、

 

また、あらためて書いてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、月曜日。

 

今週はどんな感動があるかな。

 

 

 

よい一週間を◎