意志以前、思考以前の「それ」のお話。

2016年2月11日

PCのディスプレイが見えます。

 

キーボード上を動く自分の両手が見えます。

 

PCの隣にはお気に入りの白いマグカップが、

 

その隣には白いライトスタンドが見えます。

 

 

 

このすべて、

 

私の「見よう」という意志より先に、

 

見えています。

 

 

 

 

ヒーターの音が聞こえます。

 

廊下を歩く夫の足音が聞こえます。

 

窓の外からは車の走り抜ける音が聞こえます。

 

早起きのカラスの鳴き声が聞こえます。

 

 

 

このすべて、

 

私の「聞こう」という意志より先に、

 

聞こえています。

 

 

 

これって驚異的なことですよね。

 

なにも「当たり前」なんかじゃない。

 

 

 

私たちは、普段、

 

自分の目でなにかを見て、

 

自分の耳でなにかを聞いている、

 

と思っていますよね。

 

思っている、というか、

 

それはもう自明のこととして、

 

考えの俎上にすら

 

載せられていないのではないでしょうか。

 

 

 

でも、ほんとうのところ、

 

いまここにあるのは、

 

ただ、

 

「見るということ」

 

「聞くということ」

 

「嗅ぐということ」

 

「味わうということ」

 

「触れるということ」

 

これらを総称した「経験」というもの、

 

ただそれだけ、なのだとしたら?

 

 

 

この目で見て、

 

この耳で聞いて、

 

この鼻で嗅いで、

 

この舌で味わって、

 

この皮膚で触れて……

 

というのは、すべて、

 

「思考」(知識)ですよね?

 

 

 

私たち、ほんとうのほんとうに、

 

この目で見て、

 

この耳で聞いて、

 

この鼻で嗅いで、

 

この舌で味わって、

 

この皮膚で触れて……

 

ってやっている?

 

それってほんとう?

 

そういう風に教えられたから、

 

そういう風に信じているだけじゃない?

 

 

 

ほんとうのところ、すべては「私」不在で、

 

「ただ起きている」だけなのだとしたら?

 

「私」の目なんて、

 

「私」の耳なんて、

 

「私」の鼻なんて、

 

「私」の舌なんて、

 

「私」の皮膚なんて、

 

ほんとうのところ、まったく働いていなくて、

 

いまここにあるのは、ただ、

 

「見るということ」

 

「聞くということ」

 

「嗅ぐということ」

 

「味わうということ」

 

「触れるということ」

 

その「経験」だけなのだとしたら?

 

 

 

意志以前、思考以前の「それ」を、

 

ただただ、「経験」しているのは、

 

じゃあ、いったい、

 

「誰」(あるいは「なに」)なのでしょう?

 

 

 

考えないでね。

 

なにも考えずに、ただただ

 

「それ」としてあってみてください。

 

「それ」としての「ほんとうの自分」に、

 

とどまってみてください。

 

 

 

その「誰か」もしくは「なにか」の視点から

 

LIFEを楽しむこともできる……

 

そのことは、人間という存在に与えられた、

 

最大の可能性だと思うのです。

 

 

 

こういうのを、まさしく「さとり」とか、

 

「成仏」とかって、言うんじゃない?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気持ちの良い青空が広がる東京の朝です。

 

おやすみの方も多いのかな。

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎