「因」→「果」ではなく、「因」←「果」ということ。

2016年2月19日

仏教の説く「因果」とか「因縁」とかのことばについて、

 

正直に言うと、私、結構長いこと、

 

ちゃんと理解できていませんでした。

 

というか、そもそもそのことばが存在している意味自体を、

 

まったく理解できていなかったんです。

 

 

 

だって、ここには「いま」しかないわけです。

 

なのに「因果」とは、いったいなにごとであるのか? と。

 

 

 

「原因」があって、「結果」がある、

 

ということを成り立たせるには、

 

そこに「時間の推移」を持ち込まなきゃいけないですよね?

 

 

 

だけど、ここには、もう、どうしようもなく、

 

「いま」しかないのです。

 

「過去」も「未来」もないのです。

 

それならば、もう、

 

「原因」も「結果」もあったもんじゃなかろうよ、と。

 

 

 

そこのところが、どうしても理解できなかったんです。

 

 

 

でも、あるとき、「あ、矢印の向きが逆だったわ」と。

 

そのことを教えられまして、その瞬間、

 

目からウロコが百万枚ぐらいはがれ落ちました。

 

 

 

それまでは、「原因」があって、「結果」があるのだ、

 

と、それが「因果」の意味だと思い込んでいた。

 

矢印の向きは、左から右への一直線なのだ、と。

 

「因」→「果」 ということですね。

 

 

 

でも、そうじゃなかった。

 

ほんとうは、

 

「因」←「果」 というのが正解でした。

 

 

 

つまり、

 

「過去のなにかが原因となって、

 

結果として、いまの私があるのだ」

 

という意味ではなくて、

 

「いまある私を見つめていったところに、

 

無数の縁が見えてくる」

 

という意味だったのですね。

 

 

 

すべて、「いま」が基準だったんです。

 

「いま」を基準にして、

 

「私」というものの来し方を見つめていく……

 

そういう態度を教えてくれるための、

 

「因果」ということばだったのか……と。

 

 

 

ガッテンボタン連打!!!!!

 

 

 

「いまここ」の「私」は、

 

無数の「縁」の結節点としてあるわけです。

 

 

 

さらっと書きましたけれど、

 

これ、ほんとうに「無数」なんですよ。

 

数が追いつかないところのお話。

 

 

 

「縁」って、すごいです。

 

なにがすごいって、その「辿れなさ」。

 

「これ」があるためには「それ」がなきゃいけなくて、

 

「それ」があるためには「あれ」がなきゃいけなくて、

 

「あれ」があるためには……

 

なんてことをやっているうちに、割とすぐに、

 

「なんだこれ! どこまで行っても辿り切れないじゃん!」

 

という事実にぶち当たります。

 

そして、愕然としながら思うのです。

 

「はかりしれない……!!!」って。

 

 

 

その「はかりしれなさ」の大元にある“なにか”こそが、

 

「仏」とか、「神」とか呼ばれるものの正体なんじゃないかな。

 

 

 

はかりしれないほどのご縁をいただいて、

 

いまここに、こうしてあること……。

 

 

 

「私」のものなんかひとつもない。

 

すべて、いただいたものなのだ、と……。

 

 

 

「有難い」ということばの意味が、

 

おのずと知らされるなあ、と……。

 

 

 

ありがたいです。

 

ありがたくて、愛おしいです。

 

いまここにこうしてある「私」が。

 

ひるがえって、「すべて」が。

 

 

 

いただいたいのちを、瞬間ごとに、ただただ謙虚に生きていく。

 

結節点としての「私」にできるのは、それだけだなあ、と……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありがとう。

 

どうか、よき日をお過ごしください◎