喜怒哀楽と南無阿弥陀仏

2016年2月22日

久しぶりに念仏のことを書こうかな。

 

 

 

以前の私は、自分の手で“しあわせ”の範囲を

 

狭めるようなことばかりしていたな~、と思います。

 

 

 

たとえば、「喜怒哀楽」ってありますよね?

 

以前の私は、

 

「喜」&「楽」=自分にとって都合の良いもの=幸せ、

 

「怒」&「哀」=自分にとって都合の悪いもの=不幸せ、

 

……という風に明確に振り分けていて、

 

それを基準にして生活を送っていました。

 

それを疑いもしていませんでした。

 

 

 

だから、イライラすること、かなしいことが起きたときに、

 

南無阿弥陀仏を打ち消しの呪文のようにとなえることはあっても、

 

うれしいこと、たのしいことが起きている真っ最中には、

 

私のこころには、南無阿弥陀仏の「な」の字も浮かばない、

 

という感じだったのですが……

 

 

 

でも、これ、やっぱりおかしいぞ、と。

 

“しあわせ”って、そんなケチくさいものだったっけ? と。

 

あるとき、気づいたんですね。

 

 

 

前にもこのブログで引用しましたが、

 

ラリー・ローゼンバーグさんの

 

『Three Steps to Awakening』という本の中に

 

こんな一節があります。

 

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Where is peace to be found? (paeceはどこに見つかるでしょう?)

 

In the same place as sorrow.  (悲しみと同じ場所です。)

 

How convenient! (なんて便利なんでしょう!)

 

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このpeaceは、そのまま「しあわせ」と訳して良いかなあ、と。

 

(ひらがなの“しあわせ”ね。漢字の「幸せ」じゃない。

 

ここは、私は分けて使っています。)

 

 

 

“しあわせ”って、決して、

 

「うれしい!」とか「たのしい!」とか「だいすき!」とか、

 

そういった感情とともにあるばかりじゃないんですよね。

 

「かなしい」とか「むかつく」とか「おそろしい」とか、

 

そういうときにも、ほんとうは、そこに、まったく同時に、

 

“しあわせ”は見出せるもの、なんです。

 

 

 

“しあわせ”って、それそのものが、

 

“ほんとうのいのち”に付随した質なんですよ。

 

いや、“ほんとうのいのち”そのものの質が“しあわせ”なんです。

 

そこは決してわけられるものじゃないんです。

 

 

 

だから、“ほんとうのいのち”そのものを生きるとき、

 

それは同時に“しあわせ”を生きることでもあって、

 

そして、それは、「幸せ」とか「不幸せ」とかの、

 

個人がごくごく勝手に設定した狭苦しい枠を

 

遥かに飛び越えたところに

 

決して揺るがず、“ただ、ある” もので……。

 

 

 

「うれしい」も「むかつく」も「かなしい」も「たのしい」も、

 

すべて“ほんとうのいのち”の発露としてあるのなら、

 

自分の身勝手な「幸せ」や「不幸せ」に

 

目を曇らせることさえしなければ、

 

そこにはかならず、決して揺るがない、

 

本質的な“しあわせ”が見つかるんです。

 

とてもしみじみとして安らかな、

 

あったかくてなつかしくてひろがっていくような……

 

そんな“しあわせ”です。

 

 

 

そのことに気づいてから、私は、四六時中、

 

喜怒哀楽、いかなる場面にあっても、

 

意識的にしろ、無意識的にしろ、

 

南無阿弥陀仏をとなえるようになりました。

 

「いまこそとなえるべきときだ!」とか、

 

「いまはとなえなくていいだろう……」とか、

 

そんな判断を一切せずに、なにがあっても南無阿弥陀仏。

 

うれしい? むかつく? かなしい? たのしい?

 

……ぜんぶOK! 南無阿弥陀仏

 

 

 

南無阿弥陀仏っていうのは、そのまま、

 

“ほんとうのいのち”からの呼びかけである、

 

と聞きました。

 

自分でとなえている、と思っていたとしても、

 

それはそのまま“ほんとうのいのち”の声なのだそうです。

 

 

 

だとしたら、こんなにありがたいことってないですよね。

 

南無阿弥陀仏をとなえるだけで、

 

いわば「“しあわせ”見出しスイッチ」みたいなものが

 

自動的に押されてしまうのですから。

 

そして、そのスイッチが押されたら、

 

あとはもう、“ただ、ある” を

 

そのまま生きていけば良いだけなのですから。

 

 

 

……あんまりうまく書けた気がしないのですが、

 

まあ、いいや。今回はこのまま載せちゃえ。

 

また書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、月曜日。

 

今週も、ただただ生きていきましょう。

 

 

 

南無阿弥陀仏