「ある」ものは「ある」、「ない」ものは「ない」。

2016年2月23日

「ある」ものを「ない」、「ない」ものを「ある」、

 

……と言い切ってしまうのは、

 

やっぱり無理があるよなあ、と思うのです。

 

なんの話かって、自分の素直な気持ちとか、からだの感覚のことです。

 

 

 

いや、私だって、ほとんど毎日のように、

 

「あなたはほんとうに、“自分で”考えて、“自分で”感じていますか?」

 

「その思考や感情や体感は、ほんとうに“自分の”ものですか?」

 

って問いかけていますけれど、

 

それはその主格や所有格の実際を問うているだけなのであり、

 

それらの存在自体を否定しているわけでは、決してない。

 

 

 

「思考」も、「感情」も、「体感」も、間違いなく「ある」んです。

 

それらは、瞬間ごとに、「私」と呼ばれるものを舞台として、

 

どうしようもなく湧き上がってくる。

 

そのこと自体は、疑いようのない事実です。

 

 

 

まずはそれを認めないと、実際、なにもはじまらないんですね。

 

 

 

世の中には「本質的」であることを謳った

 

知恵(もしくは智慧)が溢れているし、

 

インターネットの発達によって、私たち「ふつうの人」にも、

 

そういったものが、どんどん開かれていっています。

 

それ自体はとても喜ばしいことだと思うのですが、

 

でも、その分、受け取る側ひとりひとりの

 

リテラシーの高さが求められる時代だなあ、と。

 

 

 

で。

 

冒頭の話に戻りますが、

 

それが「ほんもの」であるかどうかの見分け方として、

 

「ある」ものを「ない」と言わず、

 

「ない」ものを「ある」と言わない、

 

っていうのは、

 

結構大事なところなんじゃないかなあ、と。

 

いや、最終的には、

 

「ある」けど「ない」、「ない」けど「ある」、

 

……みたいな世界に導かれたとしても、ですよ?

 

最初のとっかかりとして、自分の中に浮かび上がってきた

 

素直な「思い」や「気持ち」や「からだの感覚」を、

 

いったん認めて包み込んであげるのではなく、

 

はじめからそんなものはなかったかのように、

 

思いっきり無視させるようなやり方っていうのは……

 

やっぱり無理があるし、いろいろとまずい、というか、

 

ひずみが出てくるんじゃないかなあ、と……。

 

 

 

なにかを見ないようにして、

 

むりやり明るく生きているような人って、

 

なんというか、こう、

 

顔がぐっと前向きに固定されてしまっているような……

 

そんな印象を受けるんですよ。

 

顔は確かに笑っている。声も明るい。

 

前向きなことも言っている。

 

それでも、

 

「なにかを誤魔化している、後ろ暗い感じ」っていうのは、

 

人間同士ですからね、どうしても伝わってしまうんですね。

 

やっぱり、「なにかがおかしいぞ……?」っていうのは、

 

動物的な勘でわかってしまう。

 

その「勘」は、鈍らせちゃいけないなあ、と……。

 

 

 

そのためには、やっぱり、素直でいることだと思うんです。

 

「ある」ものは「ある」、「ない」ものは「ない」。

 

その事実を、事実そのものの大きさで、

 

ただただ素直に受け止めること。

 

身勝手な思い込みで曲げてしまったりしないこと。

 

それさえできれば、妙ななにかにひっかかって、

 

自分や周りを傷つけてしまうような結果には

 

陥らないんじゃないかなあ、と。

 

 

 

ふと、そんなことを思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎