「神々の遊び」「神々が遊び」

2016年2月28日

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

すべては「遊び」なのだよなあ……

 

なんてことを、しみじみと思います。

 

 

 

でも、ひとつ注意が必要なのは、

 

この「遊び」の主体は、決して「個人」ではない、

 

というところです。

 

 

 

モンスターエンジンっていうお笑いコンビが

 

「暇を持て余した神々の遊び」

 

っていうコントをやっていましたけれど、

 

私、あのネタが大好きなんです。

 

ばかばかしいけれど、

 

何気に真実をふか~~~く突いているよなあ……

 

と、真剣に感心してしまいます。

 

(あくまでも、タイトルが、ね(笑))

 

 

 

そう、すべては「神」や「仏」の「遊び」なんです。

 

……とは言っても、「神」や「仏」っていう、

 

なにか絶対的な存在がすべてを操っている……

 

とか、そういうことじゃなくて……。

 

なんだろな……。

 

「遊び」の主体なしに、「遊び」だけが執り行われている、

 

というか。

 

その、主体なしのダイナミズムそのものに、仮に、

 

「神」や「仏」という名前があてがわれているに過ぎない、

 

というかね。

 

 

 

つまり、

 

「神」や「仏」の正体は、「遊び」そのもの、

 

と言ってもいいかもしれませんね。

 

「神々の遊び」というか、

 

「神々“が”遊び」っていうことですね。

 

 

 

「個人」(の感覚)っていうのは、

 

その主体なしのダイナミズムとしての「遊び」の結果として生まれる、

 

ほんの一瞬の光の明滅に過ぎなくて。

 

すべては、「神」や「仏」の「遊び」の中にあるんです。

 

だから、ほんとうの意味では、

 

「個人」が「遊ぶ」ことはゆるされていないんですね。

 

まあ、ごく簡単に言えば、

 

一般的な意味での「自由意思」は、

 

そこにはまったく存在していない、ということです。

 

 

 

「すべては遊び」って聞くと、

 

個人としての人間は、どうしても、

 

「ぜんぶ遊びならふざけていてもいいってこと???」

 

とかね、

 

そういう風に理解してしまいがちなんですけれど、

 

(実際、私もそう思っていました)

 

このことばの真意は、もっともっと深いところにあるんですね。

 

 

 

すべては(「神」や「仏」の)「遊び」。

 

「個人」にできることがあるとすれば、

 

その真実を「個人」を超えたところから理解して、

 

その前に降参してしまうこと。

 

徹底的な降参が起こってはじめて、

 

「遊び」そのものとしての「ほんとうの自分」との

 

あたたかでしみじみとした、懐かしい再会が果たされるのだろうな、と。

 

 

 

まあ、

 

「ほんとうの自分」として、生きていきたいなあ……

 

っていう、個人の素朴な願いすら、

 

「神々の遊び」の結果だったりするんですけれどね(笑)

 

……降参です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい日曜日をお過ごしください◎