「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら……」 Part.2

2016年3月3日

昨日の続きです。

 

しつこいけれど、もう一回引用しますね。

 

 

 

==================================================================

 

大峯:小林秀雄さんが昔書いていたけど、世の中のものは全部移り変わると、人生は無常だと誰でも言う、けれど人生はいったい何に対して移り変わるのかと。

 

池田:「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう」

 

大峯:人生がそれに対して移り変わるところのもの、移り変わらないものがどこかにないと、移るということも言えないのではないか。これは現代人が一番忘れているものだと思います。

 

 

 

(『君自身に還れ 知と信を巡る対話』 大峯顕・池田晶子=著 本願寺出版社=刊 より抜粋)

 

==================================================================

 

 

 

「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろう」

 

 

 

“何”に対して過ぎ去るのだろう……

 

 

 

“何”に対して……

 

 

 

この“何”っていうのは、

 

ただただ、もう、ほんとうに、ただただ、

 

いつだって“ここ”において、

 

“すべて”を浮かべている、舞台としての“なにか”

 

……としか呼べないもの、なのではないでしょうか。

 

 

 

いや、煙に巻くつもりはまったくなくて……

 

ただただ、そうとしか表現できない“なにか”。

 

“ここ”にあるのは、

 

ほんとうの意味では、ただ、それだけで……。

 

 

 

「私」が生まれて、

 

ありとあらゆる「思考」や「感情」や「体感」と共に生きて、

 

そしていつか死んでいく。

 

 

 

それらの経験のひとつひとつを、

 

良いとも悪いとも思わず、

 

よろこびもせず、悲しみもせず、怒りもせず、

 

愛しもせず、憎みもせず、

 

浮かんでは消えていく“すべて”を、

 

一切の判断を差し挟まず、

 

ただただ、“それそのもの”としてありながら、

 

まったく同時に、

 

“そのように”あらしめている“なにか”。

 

 

 

「私」が生まれる前からまったく変わらず“ここ”にあって、

 

死んだ後にもまったく変わらず“ここ”にある“なにか”。

 

 

 

その“なにか”は、いま、この瞬間にも“ここ”にある。

 

この「私」と、まったく同時に“ここ”にある。

 

 

 

“なにか”は、そのまま、

 

ほんとうの“わたし”と言ってもいいかもしれない。

 

 

 

瞬間ごとに移り変わる「私」と、

 

不生不滅で、不垢不浄で、不増不減な、ただある“わたし”。

 

 

 

「私」と“わたし”がまったく同時に、いまここにあること。

 

すべてがそのようにあることがゆるされている、

 

その不思議さと、うつくしさ。

 

なんて圧倒的なんだろう。

 

 

 

愛って、ただ、このことを言うんじゃないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛でないもの、なし。

 

愛の中で、生きていこう。

 

 

 

よい一日を◎