ふいの一撃

2016年3月18日

ほんとうのところ、すべて、

 

自分の意志以前、思考以前に

 

「“すでに”起きている」んですね。

 

 

 

前にもご紹介させていただきましたが、

 

お時間がある方は、ぜひ、以下のリンクに飛んでみてください。

 

 

 

http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/satori1.html

 

 

 

有名な(主に禅の)お坊さんの「さとり」のきっかけが

 

一覧にまとめられています。こんな感じ↓

 

 

 

ゴータマ・ブッダ:暁の明星がまばたくのを見た時

 

一休宗純:烏の鳴き声を聞いた時

 

盤珪永琢:梅の花の香りを嗅いだ時

 

山田無文:真黄色な銀杏を見た時

 

抜隊得勝:谷川の音が心身に沁み渡った時

 

 

 

かなりマニアックだけど、面白いでしょう?

 

 

 

で、この一覧を眺めていると、

 

ふいに、こんな気づきが訪れるんですね。

 

 

 

さとりの瞬間って、

 

つまりは“ふいの一撃”を喰らった瞬間なんだなあ……

 

って。

 

 

 

そして、

 

「“ふいの一撃”を喰らった瞬間」っていうのは、

 

とりもなおさず、

 

「意志以前、思考以前に“すでに”ある世界に、

 

理屈を超えたところから“気づいて”しまった瞬間」

 

のことなんじゃないかなあ……

 

って。

 

 

 

で。

 

意志以前、思考以前に“すでに”ある世界っていうのは、

 

はっきり言って、

 

ま~~~ったく特別な世界じゃないです。

 

 

 

だって、私たち、ふだんからその世界で、

 

ごくごくふつうに生きているのだから。

 

 

 

ただ、それに気づいていないだけで。

 

 

 

私たちは、ふだん、当たり前のように、

 

なにかを見たり、聞いたり、嗅いだり、

 

味わったり、感じたり、考えたり……

 

しているわけですよね?

 

 

 

でも。

 

でも! です。

 

 

 

このすべて、ほんとうに、

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

「私」がやっていることなのでしょうか?

 

 

 

ほんとうは、すべて、「私」不在で、

 

「ただ起きている」だけなのでは――?

 

 

 

たとえば、自室の机で作業に没頭しているとき。

 

ふいに、玄関から「ピンポーン」という音が聞こえたとします。

 

 

 

その「ピンポーン」って、

 

いちいち自分が「聞こう」という意志をもって

 

しゃかりきに頑張るようなことをしなくても、

 

ごくごく自然に、「聞こえてくる」のではないでしょうか?

 

 

 

「私がピンポーンを聞いた」っていうのは、

 

「すでに起きている」ことへの後付けの解釈、

 

つまり、単なる「思考」でしかないですよね?

 

 

 

その「思考」を取り払ったところで、

 

「すでにある世界」には、

 

実は、ま~~~ったくなんの影響もないっていうこと、

 

わかりますか?

 

 

 

私が見る、私が聞く、私が嗅ぐ、

 

私が味わう、私が感じる、私が考える……

 

 

 

そこから「私が」を取ってみてください。

 

 

 

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える……

 

ただ、それだけがある世界。

 

「私が」なにかをする前に、

 

“すでに”すべてが展開されている世界。

 

すべてが、そのまま、ありのままに、ただある世界。

 

 

 

それが、ほんとうの世界です。

 

 

 

ほんとうの世界と「ひとつである」私、

 

もっと正確に言えば、

 

ほんとうの世界と「ふたつでない」私、

 

それを、ふいに発見してしまった瞬間を、

 

昔から、「さとり」の瞬間と呼んできたのではないかな。

 

 

 

「さとり」なんて、ちっとも特別な世界じゃない。

 

いま、目の前に展開されている“それ”が、そのまま、

 

あなたの求めてやまない“素晴らしき世界”

 

……なのかもしれないよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金曜日。

 

今日も、そのまま生きていこう。

 

 

 

よい一日を◎