運命論とは違います。

2016年3月24日

「すべては、私不在のままに、自動的に起こっている」

 

といったようなことを言うと、

 

「小出さんは運命論者なのですか!?」

 

「運命は変えられないっていうことですか!?」

 

といったような質問を受けたりするのですが、

 

はっきり言ってしまえば、これはまったく違います。

 

というか、私がしているのは、

 

そういったものとはまったく別個のお話なんです。

 

 

 

「運命」っていうことばは、

 

「時間」という概念とセットになってしまっていますよね?

 

でも、私がしているのは、あくまで“いまここ”のお話、

 

つまり、「時間」が存在しないところのお話なんですね。

 

だから、前提がまったく違うんですね。

 

 

 

……とはいえ、

 

じゃあ、あんたには「過去」や「未来」に関する

 

アイディアがまったくないのか!?

 

と聞かれると、それも違って。

 

 

 

「過去」や「未来」にまつわるなんらかの思いや感情は、

 

もちろん、適宜、浮かんできますよ。

 

でも、たとえば、

 

「昨日観た映画、めちゃめちゃ面白かったな~」

 

とか、

 

「月末までにあの支払いを済ませておかなきゃな~」

 

とかっていうのは、

 

“いまここ”にポッと浮かんできた、

 

ひとつの「思考」にすぎませんよね?

 

それはあくまで「思考」であって、

 

“いまここ”に、実際に、

 

「過去」や「未来」が存在しているわけではないですよね?

 

 

 

そのあたりの区別がついてくると、

 

「時間」というものの幻想性が見抜かれていき、

 

むき出しの“いまここ”が顔を出すようになります。

 

 

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、“いまここ”しかないんです。

 

 

 

すべては、“いまここ”において、

 

縁によって、目にもとまらぬ早さで、

 

生じては滅し、滅しては生じ……を繰り返しているだけ。

 

そこに、行為の選択者としての「私」は不在なんです。

 

 

 

(このあたりのことを、大乗仏教では、

 

「無自性」「空」「縁起」の3つのキーワードで説明しています。

 

興味のある方は調べてみてください。面白いですよ~。)

 

 

 

もうね、ほんとうのほんとうのほんとうに、“いまここ”しかないので。

 

“いまここ”しかないとなると、「運命」もないので。

 

 

 

「そんなのつまらない!」って思ってしまう前に、

 

実際に、「過去」も「未来」もないことを

 

感じてみてはいかがでしょうか?

 

“いまここ”の圧倒的なダイナミズムの前には、

 

ことばなんか、簡単に消えてしまいますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はほんの少し冷え込むみたい。

 

どうかご自愛くださいね。

 

 

 

よい一日を◎