「私」はいない、ということについて。

2016年3月26日

「私」がなにかをする前に、すべては、自動的に起こっています。

 

 

 

……というメッセージをお伝えすると、

 

 

 

私にできることはなにもないのですか!?

 

 

 

……と、涙目になって詰め寄られたりするのですが、

 

いやいや、大丈夫。

 

まずは落ち着いてください(笑)

 

そして、もう一度、

 

冒頭のメッセージを、じっくりと読んでみてください。

 

 

 

◎「私」がなにかをする前に、すべては、自動的に起こっている。

 

っていうことと、

 

◎「私」にできることはなにもない。

 

っていうことの間には、

 

絶対的な違いが存在していることに気づけますか?

 

 

 

そう。

 

上のメッセージにおいて、「私」は、完全に“不在”なんです。

 

 

 

つまり、こういうことです。

 

 

 

◎「私」にできることはなにもない。

 

のではなく、

 

◎そもそもなにかをできる「私」がいない。

 

のですね。

 

 

 

◎「私」にできることはなにもない。

 

◎そもそもなにかをできる「私」がいない。

 

 

 

このふたつ、使っていることばは似ているけれど、

 

実際は、ま~ったく違う事象を指し示していますよね。

 

 

 

そこに、「私」が、いるか、いないか。

 

 

 

この違いは、大きすぎるほどに、大きいです。

 

そして、ここにこそ、

 

「ほんとうのこと」のエッセンスがつまっています。

 

 

 

ほんとうのほんとうに、すべては、縁によって、

 

瞬間ごとに生滅を繰り返しているだけであって(=縁起)、

 

実体を持って、なんらかの行為を

 

選択している存在としての「私」っていうのは、

 

実際、まったく、どこにも見つからないんですね(=無自性)。

 

そこには、どんな実体もない、

 

ということだけが存在していて(=色即是空)、

 

それゆえに、“すべて”が、そのように

 

あらわれ出ることがゆるされている(=空即是色)。

 

 

 

「私」の不在性が見抜かれると、

 

「私」の影に隠れていた全体のダイナミズムが、

 

むき出しにあらわれてきます。

 

そこには“流れ”だけがあって、

 

すべてが、それそのものとして、

 

ただただ純粋に戯れている……。

 

 

 

「私」はいない、というメッセージを

 

きちんと腑に落とさないままに、

 

仏教をはじめとするさまざまな知恵・智慧を、

 

あたまだけで理解して取り入れようとしてしまうと、

 

つまらない虚無主義に陥って、

 

結果、苦悩を深めてしまうことになりかねません。

 

 

 

ほんとうに、「私」って、どこにもいないんですよ。

 

そして、これはあたまのおかしい人の戯言なんかじゃなくて、

 

(そう聞こえるかもしれないけど……!笑)

 

実際に、よくよくすべてを観察してみたら、

 

あっという間に見抜けてしまうことだったりするんですよね。

 

 

 

心臓から血液を全身に送っているのは誰?

 

いま、あなたのあたまの中に鳴り響いている音楽を選んだのは誰?

 

 

 

すべて、「私」不在で起こっていませんか?

 

 

 

逃げないで、怖がらないで、よくよく観察してみてくださいね。

 

その先に開けるものは、想像以上に大きいから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お花見には、まだ、ちょっとだけ早いかな。

 

よい一日をお過ごしください◎