そもそもいない、ということ。

2016年3月27日

昨日も書きましたが、

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

ここに「私」はいないんです。

 

「私」不在のままに、すべてが瞬間ごとに

 

生じては滅し、滅しては生じ……を繰り返しているだけなんです。

 

ほんとうに、ただ、それだけなんです。

 

それだけだからこそ、すべては、ほんとうにうつくしいんです。

 

 

 

……と、お伝えすると、今度は、

 

「どうやったら私を消せるのですか!?」

 

と鼻息も荒く詰め寄られてしまったりして(笑)

 

なかなかね、ことばとは難しいものだなあ……

 

と、しみじみ感じ入っております。

 

 

 

ということで、今日もまた、

 

ぐちゃぐちゃに絡まってしまった誤解の糸を、

 

少しずつ、ほどいていこう。

 

 

 

大事なのは、

 

◎そもそも「私」はいない

 

というところなんですね。

 

ポイントは「そもそも」です。

 

「もともと」でもいいです。

 

 

 

つまり、

 

◎「私」を消そうと頑張る

 

のではなく、

 

◎「私」なんか、そもそも(もともと)

 

どこにもいなかったことに気づく

 

だけ、ということです。

 

 

 

で、この「私」っていうのは、

 

昨日も書きましたけれど、

 

「行為の選択者」という意味です。

 

すべては広大なご縁のネットワークの中で

 

おのずから起きていることなのであり、

 

そこに、意志を持って自分の行動を選択している存在など、

 

厳密な意味で言えば、どこにも存在しないのですね。

 

 

 

大海を漂う波のようなものです。

 

波は自分の意志で、その大きさや、かたちや、

 

進むべき方向を決めていますか?

 

そこには、大海(全体)のダイナミズムがあるだけ、ですよね。

 

 

 

ほんとうのほんとうのほんとうに、

 

「私」なんか、どこにもいないんですよ。

 

そもそもいない。もともといない。

 

生まれてもいない。

 

だから死ぬこともない。

 

 

 

波は瞬間ごとに生滅を繰り返しているけれど、

 

大海はずっとそこにありますよね?

 

すべての源としての大海を、

 

禅では“不生の仏心”と呼んでいます。

 

 

 

私たち、ほんとうはいつだって

 

“不生の仏心”を生きているんですよ。

 

 

 

「私」の不在性を見抜いたとき、

 

そこには果てなく巨大な“仏心”ひとつがあらわれます。

 

 

 

ただ、気づくだけ。

 

“いまここ”に、くつろぐだけ。

 

 

 

「私」が「見よう」とする前に、

 

すでに「見る」ということが起きている。

 

「私」が「聞こう」とする前に、

 

すでに「聞く」ということが起きている。

 

「私」が「嗅ごう」とする前に、

 

すでに「嗅ぐ」ということが起きている。

 

「私」が「味わおう」とする前に、

 

すでに「味わう」ということが起きている。

 

「私」が「感じよう」とする前に、

 

すでに「感じる」ということが起きている。

 

 

 

ひとり残らず、“すでに”仏心の中にある。

 

 

 

ただ、気づくだけ。

 

“いまここ”に、くつろぐだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい日曜日を◎