安心が、安心する。

2016年3月31日

私は、日々ヘラヘラと生きているので、

 

「小出さんには不安なんてないんでしょうね……」

 

みたいなことを、たまに言われたりするのですが、

 

いやいや、いくらヘラヘラしていたって、

 

私だって人間だもの(笑)

 

不安に襲われる時ぐらいありますよ~。

 

 

 

まあ、確かに、以前から比べたら

 

その回数はぐんと減りましたけれど、

 

大なり小なり、なんらかの不安に襲われるという事態が、

 

私の人生から完全に消え失せてしまったわけではありません。

 

 

 

というか、消え失せることなんかあるのかな?

 

だって、すべては縁次第。

 

縁という名の大海の中では、どんな波だって生じ得ます。

 

次の瞬間、どんな出来事が起こって、どんな感情を抱くかなんて、

 

誰にも予測できないし、選ぶことだってできません。

 

 

 

と言っても、「私にはなにもできないんだ……」なんて、

 

無力感に打ちひしがれる必要はないですよ。

 

だって、そもそも、縁の大海の中には、

 

なにかをできる「私」はいないのだから。

 

 

 

いちいち「私」を立てるから、

 

無力感が湧いてくるんです。

 

でも、

 

行為の選択者としての「私」なんか、

 

もともとどこにもいなかった!

 

ということに気づきさえすれば、

 

波としての架空の「私」から、

 

大海としてのほんとうのわたしへと、

 

“いのち”の置き所がシフトしていきます。

 

 

 

するとなにが起こるのか。

 

 

 

不安という名の波が、

 

絶対的な安心という大海に、

 

そのまま含め抱かれてしまうんです。

 

 

 

不安は不安であっていい。

 

そのままでいい。

 

だって、それは憎むべき存在なんかじゃなくて、

 

果てしなく広大な縁の海の中に瞬間的に生まれた、

 

愛おしい“いのち”のあらわれに他ならないのだから。

 

 

 

正しい理解は、絶対的な安心を連れてきてくれます。

 

でも、その安心を感じるのは「私」の仕事ではなくて……

 

“安心が、安心する”

 

それが、一番正確な表現になるんじゃないかなあ。

 

 

 

「私」の不在性が見抜かれた瞬間、安心が、安心する。

 

世界は、事実、安心でできている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年度末ですね。

 

東京の桜は満開に近づいてきました。

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎