「否定」のない世界を生きること

2016年4月2日

以前の私は、

 

「超能力」とか、「前世」とか、「宇宙人」とか、

 

そういった類のお話を聞くと、即座に、

 

「ぜんぶフィクション!!!(鼻息)」

 

と言って、バッサリ切り捨てていたのですが、

 

いまは、もう、そんなことはしなくなりました。

 

 

 

いや、正直、個人的には、いまだに

 

そういったお話にリアリティーを感じてはいないのですが、

 

でも、ほんとうに、すべては縁次第なので。

 

どんなことだって起こり得るのだよなあ、と。

 

 

 

縁、ということをおなかの深いところから理解すると、

 

ありとあらゆるタイプの事象の存在を否定すること、

 

それ自体が起こりにくくなってきます。

 

 

 

全肯定ほどポジティブなものではないけれど、

 

でも、どんな事象と対峙したところで、

 

「そうかもね、そういうこともあるかもね」

 

「そういう風にあらわれちゃっているなら、そうなんだろうね」

 

と、フラットなこころで、

 

すんなりと受けとめられるようになる。

 

 

 

ほんとうに、すべては縁次第なので。

 

縁によって、どんなことだって起こり得るので。

 

すでにそのようにあらわれているものを

 

否定することはできないんです。

 

 

 

超能力とか、前世とか、宇宙人とか。

 

私という人間は、たまたま、

 

それらを信じる、という縁の中にいなかっただけ。

 

ほんとうに、ただそれだけなのであって、

 

それらを信じる、という縁の中にいる人々を

 

否定する必要はどこにもないし、

 

そういった事象の存在自体を

 

否定する必要だってどこにもない。

 

 

 

すべて、広大なご縁のネットワークの中で起こっている。

 

そういう意味では、すべての事象に、一切の違いはないんです。

 

縁の中では、

 

「超能力、前世、宇宙人、ぜんぶある!(いる!)」も、

 

「超能力、前世、宇宙人、ぜんぶない!(いない!)」も、

 

どちらも一緒。

 

そのようにあらわれている、という点においては、

 

まったくもって、差なんかない、ということ。

 

 

 

ほんとうに、ぜんぶ、「あっていい」んです。

 

というか、私が偉そうに「あっていい」なんてことを言う前に

 

すでに、すべてはそのように存在しているのであって、

 

そこを否定することは、決してできない。

 

 

 

「そうかもね、そういうこともあるかもね」

 

「そういう風にあらわれちゃっているなら、そうなんだろうね」

 

 

 

否定のない世界には、力みもない。

 

ここを生きることは、ほんとうに楽です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京にはしっとりとした雨が降っています。

 

よい一日をお過ごしください◎