圧を加えるまでもなく……

2016年4月4日

「私」はいない、と言うと、

 

「滅私」ということばを連想させることにつながって、

 

すべては“ひとつ”、と言うと、

 

「全体主義」、もっと言えば「軍国主義」、

 

つまりは「御国のために!」みたいな思想と

 

取り違えられることにつながって……。

 

なかなか、表現とは難しいものだな……

 

と、ため息をついてしまいます。

 

 

 

でも、言うまでもなく、

 

私が日々ここで書いているような世界観は、

 

そういうきな臭い思想とは、

 

まったくもって、趣の異なるもので……。

 

でも、具体的にどこがどういう風に違うのか、

 

長い間、うまいこと説明できていなかったのですが、

 

昨日、夫と話していて、

 

「あ、これだ!」とひらめくものがあったので、

 

今日はそれを書いてみようと思います。

 

 

 

滅私とか、全体主義って、

 

なにかを「変えよう」とする思想だと思うんです。

 

つまり、いまあるものを否定して、

 

外側から力を加えて、変質させて、

 

ばらばらに存在しているものを、

 

無理やり「ひとつ」にまとめあげようとしている思想、

 

というか。

 

 

 

でも、それってやっぱり無理がありますよね。

 

自然に反している。

 

 

 

私が日々語っているのは、そういう、

 

「バラバラのものをひとつに!」的なお話じゃなくて。

 

 

 

よくよく観察してみたら、

 

(行為の選択者としての)「私」なんかどこにもいないよね?

 

「私」がいないことに気づいたら、

 

もともとすべては“ひとつ”だったことに気づくよね?

 

本来的に“ひとつ”だからこそ、

 

それぞれが別々の個性を持って存在できているんだね。

 

世界は、そのままで、完全に、完璧にととのっているんだね。

 

これってほんとうにすごいことだよね……!

 

世界って、なんてうつくしいんだろうね……!

 

……っていうお話なんですよね。

 

 

 

「バラバラのものをひとつに!(鼻息)」っていうのと、

 

「もともとすべてはひとつだったんだ!(驚嘆)」っていうのとでは、

 

もう、まったく、世界が違うでしょう。

 

 

 

外側から力を加える必要なんかどこにもなくて。

 

ただただ余計な力を抜いて、

 

もともとそこにある“ひとつ”を見出していく。

 

本来的な“ひとつ”を見出したら、

 

あとはひたすらに、いまここに表現された

 

ご縁の賜物としての、多種多様な“わたし”を生きていく――

 

 

 

いのちに沿った生き方って、こういうのを言うんじゃないのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨の月曜日。

 

よい一週間のはじまりをお迎えください◎