「状態」はゴールではない

2016年4月7日

私は、ずいぶん長い間、修行や探求というのは、

 

なんらかの「状態」を目指して行うものなのだと思っていました。

 

なにか理想とされる「状態」があって、

 

その「状態」になったあかつきには、

 

自分は、晴れてゴールテープを切ることができるのだろう、と。

 

 

 

でも、それは勘違いでした。

 

なぜなら、「状態」は、やはり「状態」でしかないからです。

 

 

 

「状態」って、刻一刻と移り変わっていくものですよね?

 

一秒前の状態は、いまここには決して見つからないですよね?

 

そんな心もとないものがゴールなの?

 

それってほんとう???

 

 

 

移り変わるものは、すべて、“気づかれている”ものです。

 

誰に? あるいは、なにに?

 

移り変わるすべてに対する、

 

唯一不変の“気づきの主体”に、です。

 

 

 

修行、探求によって、私たちがほんとうに見つけるべきなのは、

 

まさにその唯一不変の“気づきの主体”なのであって、

 

刻一刻と移り変わっていく「状態」なんかでは、決してない。

 

「状態」に気づいている“なにか”こそが、私たちの求めるものなのだ、と。

 

それは、まずひとつ、

 

かならず押さえておかなきゃいけないところだと思います。

 

 

 

そしてもうひとつ。

 

そもそも、それを「見つけよう」と頑張ること自体が、

 

絶対的な矛盾を孕んだ行為だったりするんじゃないかなあ? と。

 

 

 

目は、目自体を見ることはできないし、

 

鼻は、鼻自体の匂いを嗅ぐことはできないし、

 

舌は、舌自体の味を感じることはできない。

 

それはそれとして、すでに“ある”ものであって、

 

自分と離れたどこか遠くに見つかるものでは決してない。

 

 

 

なんらかの状態になろう、理想の姿を見つけよう、

 

と必死になるのではなくて、

 

ほんとうは、ただただそれとしてあるだけでいい。

 

すでにそれであることに気づいて、

 

ただただそれとして生きていくだけでいい。

 

 

 

そして、それは、特別な人にだけゆるされた

 

特別な境地なんかでは決してなくて、

 

ぜったいに、誰にだって可能なことなんです。

 

というか、ひとり残らず、いまここで、

 

ごくごくふつうにやっていることなんです。

 

 

 

唯一不変の“気づきの主体”としてのわたしと、

 

私が離れて存在していたことなんか、一度もない。

 

 

 

いまここにない「なにか」になろうと頑張るのではなくて、

 

力を抜いて、いまここにすでにあるそれと、ただただともにあること。

 

 

 

ゴールなんか、そもそもない。

 

いまここを、ただただ生きるだけ。

 

 

 

ほんとうに、ただ、それだけなのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日を◎