「私」という勘違いについて

2016年4月12日

すべては「私」という入れ物の中で起こっている!

 

……っていうのは、ざんねんながら勘違いです。

 

 

 

でも、この勘違い、かなり強力なんですよね。

 

強力すぎて、知らず知らずの間に

 

この勘違いを前提とした人生を生きてしまう。

 

 

 

まあ、勘違いしっぱなしでもいいんですよ。

 

その勘違いすらゆるされている、というのは事実なので。

 

でも、勘違いしたままだと、やっぱり、本人がつらいんですよね。

 

なぜなら、その勘違いこそが、

 

あらゆる「問題」の根っこだったりするので。

 

 

 

その勘違いをほどく一助となれたなら……

 

なんてことを思いつつ、今日もブログ更新です。

 

 

 

ということで、

 

「私」という入れ物の中で起こっている(ように思える)ことを

 

まずは並べてみましょうか。

 

 

 

思考、感情、感覚、記憶、行動……

 

ほかにもいろいろあるけれど、

 

代表的なものはこんな感じでしょうか。

 

 

 

私たちは、ふだん、これらを、

 

自分の内側で経験していると思っていますよね。

 

自分が、それらの経験の主体であることを疑っていない。

 

 

 

でも、ほんとうのところ、それらはすべて、

 

縁によって、「私」不在のうちに(「私」の意志とは無関係に)、

 

ごくごく勝手にあらわれては、消えていっているのだとしたら?

 

 

 

これは単なる仮定じゃないですよ。

 

おとぎ話なんかじゃない。

 

ちゃんと観察していけば、ばっちり見抜けてしまうことなんです。

 

 

 

思考も、感情も、感覚も、記憶も、行動も……

 

すべて、「私」不在のままに、瞬間ごとに生滅を繰り返している。

 

 

 

でも、あらわれては消えていくそれらのすべてに、

 

ずっと変わらずに気づいている“なにか”がありますよね?

 

 

 

その“なにか”こそが、唯一の気づきの主体であって、

 

「私」という入れ物の中で起こっているように感じられるものは、

 

実は、すべて、経験され、観察されている客体なんです。

 

 

 

この事実に気づいた瞬間から、

 

ありとあらゆる「問題」は、その存在感を失いはじめます。

 

 

 

“なにか”としての“わたし”は、

 

いま、この瞬間も、私たちとともにあります。

 

 

 

がんばり続けていた「私」がふっと力を抜いた瞬間、

 

片時も「私」と離れずに、

 

ずっと同じ場所で見守り続けてくれていた

 

“わたし”の存在に気づくでしょう。

 

 

 

それは誰にだって可能なことです。

 

ただ、それとしてあるだけなのだから。

 

 

 

ほんとうの救いは、そこにあるんじゃないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日を◎