シャボン玉としての「私」、空間としての“わたし”

2016年4月17日

な~んにもない、だだっぴろ~い空間に、

 

無数のシャボン玉が浮かんでいるとします。

 

 

 

シャボン玉は、どこからともなくあらわれて、

 

そしてあるときパチンとはじけて、

 

空間そのものへととけ去っていきます。

 

 

 

そのシャボン玉のひとつひとつが、

 

私たちが、「自分の」ものだと思っている

 

思考や、感情や、感覚だと思ってください。

 

 

 

それらは、ほんとうのところ、すべて、

 

縁によって、ごくごく自然にあらわれては、

 

縁によって、ごくごく自然に消えていくものです。

 

そこに所有格がつくことはありえません。

 

 

 

でも、私たちは、それらはすべて、

 

「自分」という輪郭の中で起こっている!

 

と思い込んでいます。

 

そうやって、全体との本来的なつながりを

 

見失ったままに生きてしまっているのです。

 

 

 

すべての不安は、その分離感を根本にして生じてきます。

 

 

 

でも。

 

そもそも「分離」することなんか可能なのかな?

 

 

 

「すべて自分の中で起こっている」という思考や、

 

「全体から切り離されて存在している」という思考、

 

それにともなう「悲しみ」や「やりきれなさ」などの感情、

 

しめつけられるような胸苦しさや、息のしづらさなどの感覚……

 

 

 

それらのすべて、ほんとうのところ、

 

な~んにもない、だだっぴろ~い空間に、

 

あるときふわっとあらわれては、

 

次の瞬間には消え去ってしまう、

 

ひとつひとつのシャボン玉に過ぎないのだとしたら?

 

 

 

“ほんとうの自分”ということばを使うとしたら、

 

それは、シャボン玉の方にあるのではなく、

 

果てしなく広大で、すでにすべてを受けいれている、

 

空間そのものの方にあるのではないでしょうか。

 

 

 

ひとつひとつのシャボン玉から、

 

それを浮かべる空間そのものへと

 

“自分”がシフトしたときに、

 

幼いときからずっとずっと抱え続けてきた、

 

どうしようもなく切り離された感じ、

 

決して解消されることのない分離感は、

 

まぼろしに過ぎなかったことに気づくでしょう。

 

 

 

シャボン玉も空間も、あくまでメタファーなので、

 

限界のあるものではありますが……

 

なにかの助けになれたのならうれしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたのこころが安らかでありますよう。