すべては“わたし”

2016年4月19日

個としての「私」の不在性が見抜かれると、

 

すべては“わたし”になります。

 

 

 

いや、

 

“わたし”になる

 

という言い方はおかしいですね。

 

そもそもすべては“わたし”であり、

 

“わたし”がすべてであったことを、

 

ただ、思い出すのです。

 

 

 

「私」や「あなた」や「彼」や「彼女」は、

 

すべてとしての“わたし”の中に、瞬間ごとに

 

あらわれては消え、消えてはあらわれ……を繰り返す、

 

実体のないまぼろしに過ぎません。

 

 

 

だけど、瞬間ごとに生滅を繰り返す

 

「個」という名の無数のまぼろしは、

 

また、同時に、

 

すべてとしての“わたし”という

 

たったひとつのエネルギーの

 

まぎれもない結実の証でもあるんです。

 

 

 

ほんとうのところ、

 

「私」と“わたし”は、決してわけられるものではない。

 

 

 

災害や戦争や犯罪を痛ましく思う「私」と、

 

それらを静かに安らかに受けいれる“わたし”は、

 

まったく同じところに、まったく同時に存在しています。

 

 

 

激しい感情の数々と、これ以上ないほどの平穏。

 

そのふたつを、まったく同時に、

 

深く、深く、深く……ただ、感じるのです。

 

 

 

目の前の問題にこころを痛め、

 

自分にできることを模索する「私」と同時に、

 

そもそもここにはひとつとして問題などないことを

 

理屈を超えたところから知っている“わたし”がいます。

 

 

 

そこに一切の矛盾はない。

 

両方を、深く、深く、深く……感じるだけ。

 

 

 

“わたし”という名の果てしなく巨大ないのちの中で、

 

「私」という名の個別のいのちを生き切るだけ。

 

 

 

圧倒的な安心感の中で、

 

自分にできることを、ひとつひとつ、やっていくだけ。

 

 

 

ただ、それだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日を◎