縁のわからなさについて。

2016年4月24日

昨日、ある方から、

 

「縁の素(もと)みたいなものってなんなんでしょう?」

 

といったご質問を受けました。

 

 

 

えんのもと……!

 

いい表現ですよね(笑)

 

すごく気に入ってしまいました。

 

 

 

で、それはいったいなんなのか?

 

というご質問ですが、

 

いやー……正直、わからないんですよね。

 

わからない。

 

ほんとうに、わからないんです。

 

縁というものの成り立ちを説明できる日が、

 

私に訪れるとは思わないんです。

 

 

 

……とかって言うと、

 

「えええ!? あんた、毎日、“縁によって”とか、

 

“縁次第”とか、当たり前のように書いてるじゃん!

 

その正体もわからずに書いてたの!?」

 

っていうツッコミが入りそうですが……

 

いや、ほんとうにごめんなさい。

 

わからないものはわからないんですよ。

 

 

 

わからない。

 

なにがどうなって、いまここに、

 

すべてが「このように」あらわれているのか……

 

私には、ほんとうに、さっぱりわからないんです。

 

 

 

縁って、ぜったいに辿り切れないんです。

 

ぜったいに。

 

なんらかの事象が、いまここにあらわれ出るまでの流れを、

 

懸命にことばに落とし込んで説明しようとしたところで、

 

ぜったいにこぼれ落ちてしまうものがある。

 

というか、「こぼれ落ちてしまうもの」の方が圧倒的に多い。

 

 

 

そうなってくると、もう、説明しようとすること自体

 

ばかばかしくなってくるというか(笑)

 

積極的に諦めざるを得なくなるんですよね。

 

 

 

それならば、そこに力を費やすよりも、

 

いまここに、こうして目の前にあらわれている

 

縁の結実としての“すべてを”、

 

「さっぱりわからない」まま、

 

まるごと受けとめて、噛みしめて、味わって、

 

しみじみ感動しながら生きていきたいなあ、と……。

 

 

 

「なんかわからないけれど、すでにすべてがそうなっている」

 

「だからこそ、すべてがしみじみありがたい」

 

「……以上!」

 

 

 

縁については、

 

正直、そういう風に言うことしかできないし、

 

それでなにも問題はないよ、と思っています。

 

 

 

説明不可能なものを縁と呼ぶ。

 

そしてそのあらわれを慈しむ。

 

それだけ。

 

それでいいんじゃない?

 

 

 

……だめかなあ?(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京は春の雨。

 

よい日曜日をお過ごしください◎