「はかないもの」から「はかなくないもの」へ

2016年5月2日

「分離した個人はいません」みたいなことを言うと、

 

「いやいや、なにをおっしゃる。

 

私は自分の考えていることがわかるけれど、

 

隣の人の考えていることはわかりませんよ?

 

これって分離しているっていうことじゃないんですか?」

 

といったご質問をお受けするんですね。

 

 

 

まあ、至極ごもっともというか、

 

とてもよくわかるご質問ではあるのですが、

 

でも、これも「個人」というものを

 

ベースとしてしまっていることから生まれる勘違いなんですね。

 

 

 

この勘違いは、「個人の(私の)○○」に対する

 

唯一の気づきの主体としての“わたし”の視点にとどまれば、

 

スルスルとほどけていってしまいます。

 

 

 

「私の思考」「私の感情」「私の感覚」

 

これらすべて、縁によって瞬間ごとに

 

生滅を繰り返す「はかないもの」です。

 

 

 

しかし、「はかないもの」とまったく同時に、

 

そしてまったく同じ場所に、

 

「はかなくないもの」が確実に存在していて、

 

すべての「はかないもの」の流れに

 

ただただ気づいているのです。

 

 

 

「今日中にあの会社に請求書を送らなきゃ」という個人の思考や、

 

「あのバンドが解散しちゃって悲しい……」という個人の感情や、

 

「このカレー、ちょっと辛すぎない!?」という個人の感覚は、

 

すべて、唯一の気づきの主体としての“はかなくないわたし”に

 

気づかれている対象だということに気づけますか?

 

 

 

それと同様に、

 

「自分の思考や感情や感覚はわかるけれど、

 

他人の思考や感情や感覚はわからない」という個人の思考も、

 

唯一の気づきの主体としての“はかなくないわたし”に

 

気づかれている対象にすぎないことに気づけますか?

 

 

 

分離感すら個人の思考。

 

瞬間ごとにうつりゆく「はかないもの」。

 

つまり、唯一の「はかなくないもの」に

 

気づかれている対象でしかないのです。

 

 

 

視点を、「気づかれているもの」から、

 

「気づいているもの」へとシフトさせるんです。

 

そして、そこにとどまるんです。

 

すると、「分離」はすべてまぼろしに過ぎなかった! という

 

大きな気づきがやってくるのではないかと思います。

 

 

 

正確に言えば「視点」でもなんでもなくて、

 

それはすべてとして“ただある”だけなのですが、

 

そして「シフト」の主体としての個人も

 

ほんとうのところ、どこにもいないのですが、

 

便宜上、そのような表現を使ってみました。

 

 

 

なにかのお役に立てればうれしいです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎