「はかなくないもの」補足

2016年5月4日

私の思考、私の感情、私の知覚。

 

これらはすべて、縁によって、

 

瞬間ごとに生滅を繰り返す「はかないもの」です。

 

 

 

しかし、「はかないもの」とまったく同時に、

 

そしてまったく同じ場所に、

 

「はかなくないもの」が確実に存在していて、

 

すべての「はかないもの」の流れに

 

ただただ気づいているのです。

 

 

 

……といったようなことを、先日、

 

このブログに書きましたが、

 

http://koideyoko.com/archives/8912

 

「はかないもの」はなんとなく理解できても、

 

「はかなくないもの」がナニモノであるのか、

 

いまいちよく理解できません……

 

「気づかれている」とか「気づいている」とか、

 

やっぱりよくわからないよ~!!!

 

というご意見をいただいたので、

 

今日はそのあたりの説明を補足しますね。

 

 

 

たとえば……そうだな。

 

それが自分にとって良いものであれ、悪いものであれ、

 

なんらかの感情に「ぐわ~~~!」って

 

巻き込まれてしまうときってありますよね?

 

 

 

めちゃめちゃうれしい! でもいいし、

 

ありえない! マジむかつく! でもいいし、

 

もうだめだ…… 絶望だ…… でもいいし、

 

大パニック! どどどどうしよう…… でもいいし、

 

まあ、なんでもいいんですけれど。

 

 

 

でも、どんなに激しい感情の渦の中にいたとしても、

 

「自分がいま、どんな感情を持っているか」

 

っていうことには、気づけますよね?

 

 

 

どうして気づけるのかな?

 

 

 

「唯一の気づきの主体」としての「はかなくないもの」が、

 

そこに確実に存在しているから、ですよね。

 

 

 

それがあるからこそ、瞬間ごとに流れ去っていく

 

「はかないもの」としての自分の感情に

 

「気づく」ことができるわけですよね。

 

 

 

わかりますか?

 

 

 

「はかなくないもの」があるからこそ、

 

「自分」をも含む、目の前のすべてに

 

“気づいて”いられるんですよ。

 

 

 

そして、それはまったく特別なことじゃなくて、

 

すべての人が、あまりにもふつうにやっていること、

 

なんですよね。

 

 

 

「さとり」とか言うと、やっぱりどうしても

 

大げさなイメージが付いてしまうのですが、

 

それは、言ってみれば、

 

「はかないもの」から「はかなくないもの」へと、

 

いのちの軸がシフトした状態

 

(状態、でもないけれど……。便宜上!)を生きること、

 

それを指しているに過ぎないんですよね。

 

 

 

ほんとうに、なにも特別なことじゃない。

 

ただ、そこに純粋な気づきがあるかどうか。

 

違いがあるとしたら、それだけですね。

 

 

 

このあたりについては、また書いてみます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京の強風は少しずつ落ち着いて……きたのかな?

 

よい一日をお過ごしくださいね◎