「理解」の中に安住はできない

2016年5月11日

私たちは、常になにかを「理解」したがっていますよね。

 

「理解」すれば、対象は自分のものになる。

 

そこにこそ、求め続けた安住の地があるはずだ、と。

 

 

 

でも、残念ながら、それは勘違いです。

 

「理解」の中に、安住はできない。

 

 

 

なぜなら、「理解」は「理解」でしかないからです。

 

「理解」は、単なるひとつの出来事、

 

つまり流れ去っていくものでしかないからです。

 

 

 

まあ、たとえば恋愛の最高潮の中にいるときは、

 

人間って浮かれポンチになって、割と恥ずかしげもなく、

 

「私と彼は相性ぴったり☆

 

思っていることも、感じていることも、

 

不思議とそのまま理解できるの~」

 

……とかなんとか言ってみたりしますよね。

 

(ええ、ええ、身に覚えがありますとも……。)

 

けれど時が経って、

 

恋愛感情がすっかりしぼんでしまったあとは、

 

「あの人の思っていること、感じていること、

 

私にはひとつも理解できない!

 

ていうか、最初から相性が悪かったのよ!!!」

 

……とかなんとか息巻いてみたりして。

 

(ええ、ええ、身に覚えが……。)

 

 

 

主体と対象のある「理解」なんて、

 

はっきり言ってぜんぶ!!! こんなようなものです。

 

「理解」と名のつくものすべて、

 

瞬間瞬間の出来事に過ぎなくて、

 

ゆえに、時とともにかならず流れ去る……。

 

その中に人間が安住することは不可能です。

 

 

 

安住の地があるとしたら、

 

それは、なんらかの対象への理解の中ではなく、

 

そして、「理解しよう!」と頑張る自分の中でもなく、

 

それらをそのまま包み込んでゆるしている

 

絶対的な“なにか”とともにあるのだ、と……。

 

(その“なにか”は決して実体的なものではないのですが。)

 

そう思っていた方がいいかもしれません。

 

 

 

まあ、これもまた、

 

ひとつの「理解」に過ぎないんですけれどね。

 

 

 

ほんとうの理解は、

 

理解する主体も、理解される対象も

 

すっかり消え去ったところに

 

ただただ静かに立ちあらわれる――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京は白っぽい靄に包まれています。

 

よい一日をお過ごしくださいね◎