心配しても、くつろげなくても。

2016年5月24日

これまでもすべてはあるべき姿にととのってきたし、

 

これからもすべてはあるべき姿にととのっていくのだから、

 

なんの心配もせずに、ただただくつろいでいればいいんですよ~

 

 

 

……みたいなこと、私、しょっちゅう言っていますが、

 

これもまたことばの限界というか……

 

 

 

だって、「心配する」ことが起こるときには、

 

どうしたって心配してしまうし、

 

「くつろげない」ということが起こるときには、

 

どうしたってくつろげないんですよね。

 

縁の中に生かされている以上、これはどうしようもありません。

 

 

 

「心配する」「心配しない」「くつろぐ」「くつろげない」

 

ぜんぶ、縁の中で自然に起こってくることで、

 

「自分」の力で選ぶことはできないんです。

 

 

 

ただ、

 

「自分」が力もうがゆるもうが、

 

すべてはおのずから起こっている

 

……ということへの理解に、

 

理屈を超えたところから包まれたのなら、

 

心配しようが、くつろいでいられなかろうが、

 

そこにひとつも問題はなくなってしまうんですよね。

 

 

 

緊張感や胸のざわつきがあっても、

 

それすら「自分」と無関係に、おのずから起こっているだけ……

 

ということが理解されると、

 

「緊張感や胸のざわつき=問題」

 

という図式は崩れてしまうんです。

 

そういう、一見してアクロバティックなことが

 

なんの矛盾もなく、可能になってしまうんです。

 

 

 

かといって、それらの不快感に対して

 

なにもしない、というわけじゃないです。

 

いや、しない場合もあるでしょうけれど、

 

それすら縁の中で起こっているだけであって、

 

「自分」で選んでいるわけじゃない。

 

「なにかをする」ということが起こるならするだろうし、

 

「なにもしない」ということが起こるならしないだろうし……。

 

それでぜんぶがととのっている。

 

 

 

これは、自由です。

 

「自分の自由」じゃなくて、自由だけがある、ほんとうの自由。

 

 

 

そして、自由を生きることは、

 

誰にだって可能なのだと思っています。

 

本来、すべてはそのようにととのっているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎