「宗教体験」「神秘体験」は必要ない

2016年5月26日

ことばを超えたところにあるなにかに気づくために、

 

特別な「宗教体験」や「神秘体験」は必要ですか?

 

……との質問をいただきました。

 

 

 

答えは「ノー!」です。

 

断じて「ノー!!!」です。

 

 

 

なぜなら、「体験」は、あくまで「体験」でしかないからです。

 

 

 

いや、私自身、「小出遥子の歴史」を語るときには、

 

「何年の何月にこういう体験があって……」

 

という風に、具体的なお話として

 

それらを入れ込むことはありますよ。

 

 

 

でも、何度も言うけれど、

 

「体験」は、あくまで「体験」でしかありません。

 

 

 

「体験」とは、つまり、「流れ去るもの」です。

 

 

 

どんなに壮大で、素晴らしい「体験」をしたとしても、

 

いま、ここの現実の中に、それはどこにもありませんよね。

 

あったとしても「記憶」、

 

つまりは「物語」になってしまっています。

 

 

 

「記憶」や「物語」が悪いわけではないんです。

 

「思い出」は大切にとっておいても全然かまわない。

 

 

 

でも、それよりももっと大事なのは、

 

あらゆる「体験」とまったく同時に、

 

“いまここで「体験」が起こっていることに

 

気づいているなにか”がありますよね?

 

……っていうことなんです。

 

 

 

瞬間ごとに流れ去っていく「体験」という名の対象に、

 

ただただ気づいている、唯一の主体としてのなにか。

 

 

 

そのなにかは、この肉体としての「私」じゃないですよ。

 

「私」を構成している「思考」や「感情」や「知覚」すら、

 

すべて瞬間ごとに流れ去っていくひとつの「体験」、

 

つまり、唯一の主体に気づかれている対象に過ぎないからです。

 

 

 

「私」という現象をもひっくるめて、

 

あらゆる体験に、ただ気づいている“なにか”。

 

 

 

特別な体験をしようがしまいが、

 

その“唯一の気づきの主体”は、

 

かならず、いまここの「あなた」とともにあります。

 

かならず、です。

 

 

 

「体験」を求めなくてもいい。

 

いまここで起きること、それに気づいている意識と

 

ただただともにあればいい。

 

安心していていいんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ということで、「体験」の描写をもばっちり含んだ(笑)

 

小出遥子の半生インタビューが『彼岸寺』に載っています!

 

大尊敬する先輩ライター・杉本恭子さんが、

 

「源」の部分から探って、大変丁寧な記事にまとめてくださいました。

 

ぜひ、お楽しみくださいませ!

 

 

 

仏教は誰にとっても「自分ごと」。小粒でピリリなブディスト・小出遥子さんの「これが私のホトケ道」(前編)

 

仏教は誰にとっても「自分ごと」。小粒でピリリなブディスト・小出遥子さんの「これが私のホトケ道」(後編)