安心を得る私はいない

2016年7月4日

先日、ある方から、

 

「小出さんは大いなる安心に包まれて

 

生きていらっしゃるようですが、

 

どうやってその境地に至ったのでしょうか?」

 

といったようなご質問を受けました。

 

なので、ここでお答えしますね。

 

 

 

……とは言え、です。

 

まずお伝えしなくてはいけないのは、

 

「私はそんな境地には至っていませんよ~」

 

ということで。

 

 

 

いや、これ、謙遜とかそういうものじゃなくて、

 

単なる事実ですね。

 

 

 

「私」は、そんな境地には、至っておりません。

 

 

 

なぜなら、「安心」というのは、

 

「私」の不在性が明らかになったとき、

 

ふいにやってくるものだからです。

 

 

 

だから、その境地に至れる「私」はいないんです。

 

 

 

(あと、「境地に至る」っていうのも、

 

ちょっと問題のある表現だなあ、

 

とも思うのですが、

 

それはまた、別の機会に……。)

 

 

 

「安心」は、

 

「私」に任されるものではないからこそ、

 

「安心」としてあることができる、

 

……と言うこともできると思います。

 

 

 

「私」が得たり、失ったり、

 

増やしたり、減らしたり……

 

つまり、「どうこう」できるものは、

 

ほんとうの「安心」ではありません。

 

 

 

危なっかしい「私」が扱う

 

危なっかしいものが

 

「安心」であるわけがないですよ(笑)

 

 

 

「安心」を得る「私」もいなければ、

 

「安心」を生きる「私」もいない。

 

 

 

そのことが、ストン! と理解されたとき、

 

ここには、もはや、

 

「安心」しか存在していないことに気づくのでしょう。

 

 

 

もう、ほんとうに、これだけだなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください◎