「裁かない」なんて、ホントにできる???

2016年11月5日

おはようございます。小出遥子です。

「あなたを苦しめているのは相手じゃない。
相手を裁く、自分のこころだ。」
みたいな標語というかなんというか……
こういうの、結構よく見聞きしますよね。
実際、昨日も見たんですけれど。

まあ、ね。
確かにその通りなんです。
ごもっとも。
相手は、なにも悪くない。
それを裁くこちらのこころにこそ、苦しみの元はある……

って、ついうっかり納得しそうになるんですが、

が!!!

でも、どうなんでしょうね。
「うむ、確かに。」と深くうなずいたところで……
誰かやなにかを裁く気持ちって、ほんとうに抑えられますか?

「もう誰のことも裁くまい」と決意したところで、
その5分後に、コンビニのレジで誰かに割り込みをされたら、
「むか~!」ってなるのが人間ってもんなんじゃないですか?

そりゃあなにも裁かずに生きていけたら楽だろうな、とは思いますよ。
でも、それがほんとうに可能なのかな、っていうところなんです。

人間、誰しも、ひとりきりで生きているわけじゃないので。
ご縁の網目の中で生きている(生かされている)ので。

どんなに穏やかに生きていきたい、と願っても、
縁によっては、怒りや悲しみ、ときに憎しみなど、
どうしても抑えることのできない激しい感情に
身を焼き尽くされることだってあるでしょう。
それが人間という生き物の宿命です。

親鸞さんも
「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
と言っていますし。

自分の思考や感情や行動って、自分で選んでいるようでいて、
ぜったいに自分では選べないんです。

ぜんぶ、縁の中で起こっていることなんです。
縁の中で、起こってしまうんです。

だから、もし「裁かない」をやりたいのなら、
縁によってはどんなふるまいをもしてしまう自分自身に対して、
というのが正解なんじゃないかな。

誰かやなにかや、ときに自分をも裁いてしまう自分自身を、
「縁の中で生きている(生かされている)のだものね」と、
やさしく包んで、ゆるして、受けいれてあげる。

それが、個人にできる、ギリギリのラインだと思います。

いや、それをやるのは、もはや「個人」ではないかもしれませんね。

……どちらでもいいけれど(いいのか?)
とにかく、できるだけたのしく、身軽に、生きていきたいですね。

人間には、その権利があるのだと思います。

人間は、絶対的に不自由だけれど、
それと同じだけ、完全な自由を味わえる存在なのだから。

 

よい一日をお過ごしください◎