為されている、ということ。

2016年11月7日

おはようございます。小出遥子です。

今日はこちらの引用から。

 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。

(夏目漱石『文鳥・夢十夜』「夢十夜(第六夜)」新潮文庫 より抜粋)

仏師・運慶は、鑿と槌を使って仏の姿かたちを創作しているのではなく、
木の中に埋まっている仏の姿を、鑿と槌の力を使って掘(彫)り出しているだけ……。

これは小説の中のお話ですけれど、
「さもありなん」と納得してしまうようなエピソードです。

運慶さんレベルの大仏師になると、
そういうことも可能なのだろうな~。
スーパーアーティストはすごいな~!

……と、私も、長年、他人事のように感心しながら
このお話を読んでいたのですが、
(『夢十夜』は好きで、割とよく読み返すんです)
この頃、ちょっと印象が変わってきて、
こんな風に思うようになったんです。

これは、決して、大仏師・運慶ひとりのお話じゃない。
私たちひとりひとりが、日常的にやっていることだ、って。

たとえば、誰かとの何気ない会話だって、これとまったく一緒だと思うんです。
交わされるべき会話は、ふたりの真ん中にすでに埋まっていて、
それを、双方向から、丁寧に丁寧に、形を崩さないように
掘り出す作業をしている(というかさせられている)だけ……
みたいな感覚になることって、ないですか?

あと、料理をしているときもそうですね。
作られるべき料理はすでにあって、それに向かって、
ただただ自分のからだが動いている(というか動かされている)だけ……
みたいな感覚になることって、ないですか?

これ、もしかしたら、すべてにおいて言えることかもしれない……。
この世に存在する営為という営為、もれなく、ぜんぶ。

私たちって、決して、自分ひとりの力で
なにかを為しているわけじゃないんじゃないかな、って。
というか、なにかが「為される」とき、
実はそこには自分の力なんか一切及んでいなくて。
すべては縁の中でごくごく自然に「為されて」いて。
自分になにかができるとしたら、
「自分は自分の力でこれをしました」
という勘違いをはたらくということ、
ただ、それだけなんじゃないかな、って。

なんかね、考えれば考えるほど……
というより、考えるのをやめて、
虚心坦懐に事実を見つめれば見つめるほど、
「自分は、ほんとうに、なにもしていないなあ……」
という気分になってくるんです。
「すべては、ただ、為されているなあ……」
って。

だからやっぱり、

「南無阿弥陀仏」

ただ、それだけ、なんですよね。

なまんだぶなまんだぶ……

 

月曜日ですね。

よい一週間のはじまりを◎